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聖都エルサレムの南東、モリヤの丘に創建され
ユダヤ教の唯一絶対神【ヤハウェ】を祀る神殿。
同じ場所にほぼ同一結構で3回再建されています。
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元来遊牧民であったイスラエル民族の間では
神は天幕に住むとされ、定住農耕民族的な場所的制約下に
ある神殿を拒否する傾向が強かったようです。(注:ニッポニカより転載)
下図は幕屋(天幕)構造のエルサレム神殿の原型想像図。
幕屋の基本構造はアカシア材の壁板で山羊の毛を織った
天幕で覆われていたと想像されます。
垂れ幕の奥の至聖所には【契約の箱】が
安置されていたと考えられています。
これがダビデ王時代のエルサレム神殿の原型になります。
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紀元前949年、イスラエル第三代目の王・ソロモン王
(知恵の王様・預言者とされアラビア語でスライマーン、
トルコ語でスレイマンとよばれます)
が、移動式の幕屋(天幕)神殿に代わり固定型の神殿を
エルサレムに創建しました。
その構造は幕屋(天幕)式が原型でした。
(これが一回目のエルサレム神殿の創建になります)。
紀元前7世紀ヨシヤ王の宗教改革により神殿は
神の地上的臨在の唯一の場とされ民族の宗教的な中心と
なりました。
これがエルサレム第一神殿またはソロモン神殿といわれます。
下図はエルサレム第一神殿の想像スケッチ図
エルサレム第一神殿想像図
しかし、このエルサレム第一神殿は紀元前587年
バビロン軍(バビロニア王ネブカドネザ2世)により
破壊されてしまいます。
破壊されて約70年間のブランクの後の紀元前515年、
捕囚からの帰還後ゼルバベルにより
神殿は再建されました。これが二回目のエルサレム神殿建設です。
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紀元前20年、ヘロデ王により同じ場所に第三回目のエルサレム神殿の
増修築が行われ、神域も拡大されました。
こうして第三回目にヘロデ王により再建されたエルサレム神殿は
エルサレム第二神殿またはヘロデ神殿ともよばれております。
下図はその想像スケッチ図。
下図はエルサレム第二神殿の模型
同じくエルサレム第二神殿の模型
しかし、このエルサレム第二神殿も紀元後70年、敵対する
古代ローマ帝国軍により再び破壊されてしまいました。
ユダヤ教もユダヤ教から派生したキリスト教も
唯一絶対神に対して、当時のローマ帝国は多神教でした。
こうした宗教的な違いからも当時のイスラエルとローマ帝国は
根底的に敵対していたと考えられます。
過去も現在も、そして将来も宗教的対立は永遠の課題かもしれない。
破壊を免れた(というか、あまりにも頑丈だったため破壊できなかった)
遺構が下図の有名な【嘆きの壁】(高さ約37m)です。
エルサレム第二神殿の遺構:嘆きの壁
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エルサレム神殿の興亡の歴史は、神殿を単なる神の地上的臨在の
象徴にとどめずユダヤ民族は、政治的主権・国家国土の象徴ととらえております。
エルサレムの第三神殿再建と聖都エルレムを首都にすることが
ユダヤ民族の国家再建の夢と熱望になっているとのことでした。
しかし、紀元7世紀以来、神殿・神域跡にイスラム教の
[岩のドーム]や[アル=アクサ・モスク]が建てられ
ここ神殿域はユダヤ教の聖地であると共にイスラム教徒の聖地にも
なってしまい、ユダヤ教徒によるエルサレム第三神殿の再建はおろか
聖都エルサレムをイスラエルの首都に、との夢と希望は
叶えられず現在に至っております。
第二神殿の遺構、西壁の一部(嘆きの壁)においては、失われた神殿、
失われた国家をしのび、再建を熱望して祈り・願うユダヤ人の熱気に
溢れておりました。
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